校長 その日その日

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2024/12/04

(12/4)読書・知識はノイズ!?

そうか、読書で得られる知識は"ノイズ"なのか…。

 

本校図書館で軽い気持ちで手に取ったうちの1冊『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅果帆著、集英社新書)。

「読書とは近代以降、社会階級闘争の象徴であり手段であった」

「戦前・戦後、高度経済成長期と、読書の性格は変わっていった」

という内容はストンと胸におち、失礼ながら題名の平易さに反して、著者は経済史や文化史を丁寧にあたられているとの印象を受けました。

 

少々ショックだったのは次のくだりです。

「2000年代は読書で得られる『知識』が、インターネットで得られる『情報』に代わられた時代だった」

「現代は『情報』=純粋に自分の知りたいことだけ=が求められる世で、『知識』のようなノイズ』=他者や歴史や社会の文脈を含むもの=は厭われるようになった」。

 

三宅さんは賞賛しているわけではないものの、「知りたい情報の取得の速さでは、読書はネットにかなわない」として、ネット情報取得に懐疑的な識者たちを批判しています(もっとも三宅さん自身は相当の読書家だそうですが)

 

時代はそうかもしれないけれど、それでもなぁ…という抗いたい気持ちが湧いてきます。

 

もちろん、「情報」取得の物理的な速さでいえば著者のいうとおりでしょう。

 

ただ、すでに言い古されていることではありますが、「自分の知りたいこと」と思ってアクセスしたネット情報は、どれだけの批判・批評に耐えた情報なのか。

結果として、真に「知りたいこと」足りうる情報ではない可能性だって十分にあり得ます。

 

私がかつて参加していた考古学のシンポジウムなどでは、研究者が新たな学説を出したところでガンガン批判を浴び、先輩には「そういうものにすぐ飛びつくな」「自分で類例を探せ」と戒められたものです。

数年たって出土例や類似研究が出てきて、ようやく一定の支持が得られるのが普通でした。

 

三宅さんの時代観が正鵠を得ているとすれば、現代の人は目にした情報のうちいくつかを「ノイズ」と思って切り捨てたら、それを修正するチャンスは二度と訪れないのではないか。

 

そうでなかったとしても私は、ノイズを内に秘めた人ほど魅力的だと思います(本校の教員にも多い)し、そもそも思考を修正できない人生というものは、生きていて窮屈で辛つらくて、つまらないと思うのですが。

皆さんはいかがお考えでしょうか。

 

ちなみに私は多読家などでは全くなく、遅読・積読(つんどく)人間です。